50回目の投稿になります。
写真はミレニアムブリッジという橋から見た朝日です。
ところで「ジェイのアンダークラスブログ」という名前で始めたブログですが今の世界状況でバンドが解散しそうなので名前を間違ったかもしれません(笑)
前回の記事「ロンドンで教わったミュージシャンとして生きるために一番大切な才能と世界で一番クールな事」に僕が19歳の時に通っていた音楽の専門学校の事について少し書きました。
今回はそこで出会った僕のドラムの師匠について書こうと思います。
こちらの曲は専門学校一学期の終わりのライブ授業の課題曲でした。
LED ZEPPELIN/ BLACK DOG
昔の音楽学校探し
どうやって音楽の専門学校にまず入学したかというと、インターネットがまだ普及していなかったのでネットカフェで住所を調べ直接学校のレセプションに行き「入学の仕方、全くわからないんだけど説明してくれる?」と聞くと、練習スタジオを開けられ30分ウォームアップするよう告げられました。
学校のドラム科の責任者(入学式で分かりました)が入ってきて「5つの違うグルーブを叩いてみて」と言います。
口でリズムを歌ってくれたりと何を叩いて欲しいのかを説明され、可能な限り叩くと「問題ないね、ちゃんと授業について行けるよ」と言われ入学する事に決まりました。
入学式・師匠ユージとの出会い
イギリスの学校は9月から始まります。
入学式の先生によるドラムソロのデモンストレーションは衝撃でした。
その後クラス分けの試験があり僕の学年はドラマーが90人、10人ずつ9クラスに分けられ1がトップクラスで9が最低です。
僕は「2」でした。なので「お?俺行けるんじゃねーのか?」と調子に乗っていたのは言うまでもありません。
クラス分けが終わり家に帰ろうと学校の外に出るとやたらと悪そうな顔をした日本人に話しかけられました。
彼の名前は「ユージ」、僕と同じ北海道の出身でした。
僕よりも6歳年上でしたが「ユージ」と僕は呼び捨てにしていましたし、彼も「友達なんだから敬語なんていらねーよ」と言ってくれてすぐに仲良くなりました。
YUJI「それで、JAYはクラスはどのレベルになった?」
僕はドヤ顔で答えます。「2だけど。ユージは?」
YUJI「俺は1。」
「マジか」と思いました。
当時ドラム科の90人の生徒の中で白人以外は僕達だけでした。
その中でも彼はダントツで一番上手く、仲良くなり一緒にスタジオに入るようになってからは朝9時から夜11時に学校が終わるまで一緒に練習をしていました。
ミュージシャンになる理由
僕が音楽をやる理由を言おうと思えばいくらでも出てきますが、一番の理由は「この世界に他に音楽以上にやっていて面白いと思う事が無いから」です。
本当にただそれだけです。
ミュージシャンが音楽好きなのは当たり前ですもんね。
ユージは違いました。
貧しい5人兄弟の末っ子で(もっと多かったかもしれません)、人生で初めて手に入れた誕生日プレゼントは小学生になって始めた新聞配達で稼いだお小遣いで買ったショート・ケーキだったと言っていました。
高校に進学をさせてくれないため、東京の兄を頼り15歳でたった一人で上京し新聞配達をしながら高校に通い、22歳まで音楽の専門学校へ、そしてさらに24歳まで新聞配達を続けてお金を貯めてロンドンに来たそうです。
授業の合間に二人でカフェで休憩している時などに「友達とカフェでコーヒーなんて飲んだ事なかったから凄く楽しいんだ」「友達と遊ぶのってこういう感じなんだな」などと何度も言っていました。
彼は僕を見て「お前は本当に音楽が好きなんだな」と言いました。
意味がわからずどういう事か聞くと、「俺は何で飯を食っていこうって思った時、音楽やるしかなかったんだよ、食うためにやってんの。俺はドラムくらいしか出来ないから。お前は他にも人生の選択肢がある中で音楽にしたんだろ?それは音楽が好きなんだよ。」
なるほどと思うと同時に自分の恵まれた境遇を彼と比べ少し恥ずかしく感じました。
サッカー日本代表の謳い文句「負けられない戦いがここにある」ですが、僕は昔からその文句が嫌いです。
ヨーロッパや南米の選手の方がどれだけ「負けられない」か。
好きでやっているものと子供の頃から生きていく糧だった者の違いが音楽にもあるんだな、と教えられた瞬間でした。
全く同じことを去年日本ツアーの最中に自分のバンドのベーシストに言われユージの事を思い出していましたが今回の方が意味が良くわかった様な気がします。
ユージは10年以上両親と会話すらしていませんでした。
良かったのか悪かったのかは分かりませんが僕は彼の両親は当時すでに70歳を過ぎていたので「まだ生きてるのがわかってるんだから絶対話した方が良いよ」と繰り返し言いました。
彼は僕の電話を使って両親に10年振りに電話した時、正座をしていました。
その後彼は北海道の実家に帰り両親に会いに行き、彼の中で何かが変わったのでしょう、「ロンドンは最高に楽しかった。でも親の顔と兄弟の顔を見たらここに居ないとって思ったから、ロンドンでの時間は夢だったと思って生きるよ。」と電話があって以来メールアドレスもお互い持っていなかったので連絡は取れていません。
彼と一緒に過ごした時間でドラムはもちろん色々と教えてもらった事が自分のベースになっているのは間違いないと思います。
正直学校の授業よりも彼からの方が遥かにたくさんの事を学びました。
当時学校でも明らかな人種差別を受けていましたし、と言うのは誰が見てもYUJIが一番ドラムが上手いのですが必ず試験は落第点ギリギリで、僕もクラスメイトが「どうして?」と疑問に思うほど低い点数を先生に付けられた事もありました。
「ファッキン・ジャップの力見せてやろうぜ」が彼の口癖でしたがその気持ちはいつまでも持っていたいと思います。
彼は僕がミュージシャン人生を未だに歩んでいる事を知ったらきっと喜んでくれると思いますが、コロナウィルスが収束してくれないとミュージシャンはいよいよまずいかもしれません。
お付き合いありがとうございました。
Jay